Founding Era
有馬カンツリー倶楽部がある場所は、昔から全面が丘陵地で、フラットな地形に恵まれており、昭和のはじめには名門廣野ゴルフ倶楽部の建設候補地にも上がったと言われるほどの優れた土地だった。ただ、当時はあまりにも交通が不便であったために断念した場所と言われている。
しかし、1958年(昭和33年)になって再びこの地でゴルフコース建設の話が持ち上がった。
第二次大戦後、経済復興とともに交通路が整備され、開発するには申し分のない状況となっていた。”
昭和34年2月27日、新有馬開発株式会社が設立されて開発計画が認可され、いよいよ第一歩を踏み出すこととなった。
その時に作成された「有馬ゴルフリンクス設営目論見要綱」には次のように書かれている。
「周辺環境、景観、土質、起伏などの状態は極めて良好で、一帯は南に面し陽光を浴び芝の育成に適している。所々自然池、松林が点在して風致を加え、変化とスリルに富んだロングコースを計画し得る」としている。
面白いのはその続きで、「リンクスに隣接する松茸山はクラブの管理に所属するので、松茸狩に家族的なリクリエーションを楽しみ、三田米、三田肉によってプレー後、味覚を楽しむことも出来る」と書かれている。松茸山の話は、昔からの会員や社員の間では有名な話。開発当初から地域特産の味覚もアピールポイントの一つとしているところが、伝統とも言うべき人間味あふれる有馬カンツリー倶楽部の良さを感じとることができる。そして「他面、有馬温泉を近くに控え、商談に来客の招待に充分利用することが出来る関西随一のチャンピオンコースとなることは疑いを容れない」という言葉で締めくくっている。今でもそのまま使えるようなキャッチフレーズである。
プレーヤーにとって最良とも言えるこの環境で、最高のゴルフコースとするためのコンセプトは「自然池や松林の点在する環境景観、芝の育成に優れた場所で、変化とスリルに富んだ関西随一のゴルフコースをつくる」であった。これを実現するために「自然の地形を最大限に活かす」ことに定評のあるゴルフコース設計家の保田与天氏に設計を依頼することになった。保田与天氏直筆の有馬カンツリー倶楽部設計図には「コースを征服する」という意欲を掻き立てられる工夫が随所に凝らされている。
やがて待望のアウトコース9ホールが完成し、日本で137番目(兵庫県で17番目)のゴルフ場として、昭和35年(1960年)9月23日、有馬カンツリー倶楽部はオープンした。 翌昭和36年(1961年)7月にはインコース9ホールが完成し、全18ホールとなる。 雄大な敷地内に作られたコースの他、練習場まで確保された贅沢な造りは当時ならでは壮大なスケールで、上級者から初級者までの幅広いプレーヤーが個々のレベルに合わせて楽しめるゴルフ倶楽部として話題を呼んだ。